ドライバー

2009/09/07

フィジケラ、フェラーリに移籍、そして今シーズン限りで引退へ

負傷したマッサの代役にバドエルを起用していたフェラーリだが、次戦からは現フォースインディアのフィジケラを起用することを明らかにした。

イタリア人ドライバーであるフィジケラは「フェラーリで完全燃焼し尽くす」と強い意気込みを示すとともに、今シーズン限りで一線から退くことを明らかにした。来シーズンからフィジケラはフェラーリのリザーブドライバーとしてフェラーリに残留する。


フィジケラは1996年ミナルディーからF1デビュー、同年の最高位は8位。
翌年ジョーダンに移籍し、最高位2位で6回入賞、97年も2回の表彰台、98年にはベネトンに移籍し初ポールを獲得している。
2002年には再びジョーダンに戻り、2003年のブラジルGPで初優勝を飾った。
2004年のザウバーを経て2005年にはルノーに移籍、開幕戦でポール・トゥー・ウィンを決め2006年のマレーシアGPでも勝利している。

2008年から新チームのフォースインディアに移籍し先日行われた2009年ベルギーGPでポールを獲得、決勝で2位表彰台に入った。

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2009/01/10

トロロッソ、ブエミの起用を正式発表

チームの売却先を求めているホンダF1チームは別として、2009年のドライバーを唯一決めていなかったトロロッソが、かねてから有力視されていたセバスチャン・ブエミを起用すると発表した。

ブエミは20歳のスイス人ドライバー。2008年はGP2に参戦し6位でシーズンを終えている。ブエミはレッドブルの若手育成プログラムを受けており、キャリアのほとんどをレッドブルから支援を受けている。

残る一つのシートはボーデ、佐藤琢磨が有力候補に挙がっている。
佐藤琢磨のF1復帰を願うばかりだ・・・

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2009年パリダカ、片山右京は無念のリタイア

バイオフェールを燃料などいくつかのエコ仕様のマシンでパリダカに挑んでいた片山右京だが、第5ステージ102Km通過したあたりでマシントラブルに見舞われ、リタイアとなってしまった。

この日の夜からの悪天候で第5ステージは困難なレースとなった模様。片山右京はサポートトラックのけん引によってキャンプ地ラファエルに到着、懸命の復旧作業も叶わずリタイアとなったそうだ。

片山右京は自身のオフィシャルサイトのブログに「燃料、ダンパー、タイヤ、ボディーパーツも環境に配慮した物、全て完璧でした。もう少しでそのポテンシャルを証明出来るとこだったのに。残念です。申し訳ありません。申し訳ありません」と書き込んでいる。


環境に配慮した車両での挑戦を続け、この悔しい気持ちを晴らしてもらいたい。

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2008/12/31

片山右京、2009年パリダカにチャレンジ

F1引退後はラリーにも挑戦している片山右京は、2007年に使用済み天ぷら油をリサイクルしたバイオフェールを燃料とするディーゼル車でパリダカを見事完走してみせた。このプロジェクトは3年間を一区切りに進められていたが、2008年は情勢不安によりレースがキャンセルになってしまった。
それでもプロジェクトを着々と進め、2009年、舞台をアフリカから南米にうつした「パリダカ」で再び挑戦する。

1月3日にアルゼンチンのブエノスアイレスからスタートしチリをまわって再び1月17日にブエノスアイレスに戻ってゴールとなる。

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2008/11/08

佐藤琢磨、再びトロロッソのテストに参加

2008年シーズンが終わったばかりだが、11月17日からバルセロナで合同テストが行われる。
このテストに佐藤琢磨が参加する。9月にもテストに参加したが、今回もその時と同じトロロッソのマシンに乗る。
9月に参加した時は雨に祟られ十分なパフォーマンスを見せつけることはできなかった。それでもチームからの評価はまずますのものだった。
今回のテストでは天候に恵まれ実力をおもいっきり見せてもらいたい。佐藤琢磨は17日、18日にバルセロナで走る予定だ。

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2008/10/02

中嶋一貴、2009年もウィリアムズに残留

日本GPに向けて機材が続々と到着している中、日本のF1ファンにとって嬉しいニュースが飛び込んできた。
ウィリアムズが2009年のドライバーを発表、今シーズンに引き続きロズベルグと中嶋一貴を起用することを明らかにした。

ベッテルの活躍が目覚しいところだが、中嶋はこれまで5度の入賞で9ポイントを獲得しており今後の成長が期待されるところなので、ウィリアムズが継続して中嶋と契約してくれたことは彼のキャリアにとってもプラスだと思われる。
日本のファンの一人としては、とにかく日本人ドライバー不在のシーズンが回避されただけでも嬉しい。
あとは佐藤琢磨についても良いニュースが聞けるといいのだが・・・

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2008/09/19

佐藤琢磨、久しぶりにF1マシンをドライブ!

9月18日、ヘレス合同テストは午後から降雨に見舞われた。
久しぶりにF1マシンを走らせる機会を得た佐藤琢磨だが、残念ながら午後の走行を見合わせることになってしまった。
それでも、前日のブエミよりも0.635秒速いベストタイムを記録、トータル49ラップを周回した。

佐藤琢磨はトロロッソのマシンに乗り、クルマに慣れる為のセットアップを行い、同時に空力のテストも行った。
タイムは前日のブエミより速いものであったが、この日、ベッテルは前日のタイムを1.877秒短縮しており、8台中7番手タイムの小林可夢偉、8番手タイムの中嶋一貴と並んで6番手タイムという結果は微妙なところ。

雨のため予定を切り上げざるを得なかった琢磨だが、久しぶりの走行を楽しんだようだ。
今回の走行で何かが変わるのかはわからないが、また良いニュースが聞けることを期待して待ちたい。

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2008/09/16

パトレーゼ

9月9日、リカルド・パトレーゼが15年ぶりにF1マシンに乗った。
ホンダのバリチェロがパトレーゼの持つF1GP最多出走記録の256戦出場記録を破った際、これを祝うゴルフ大会にパトレーゼも出席しており、このときにホンダマシンをドライブしたいとコメントしていたことから実現に至ったとのこと。

パトレーゼはホンダRA107に乗り込みトータル5ラップを周回、この15年の間のF1の進歩を体験した。

パトレーゼは1977年から1993年に引退するまで17年間にわたってF1をドライブ、通算6回の優勝記録を持つ。
特に1991年と1992年ウィリアムズのマンセルとのコンビは無敵だった。
最後の勝利は38歳のときで、1992年の日本GP。長くF1を見てきているファンにとって懐かしい名前だった。

1992年、ウィリアムズはマンセル、パトレーゼのコンビでチャンピオンを獲得してから、1993年はプロストとヒル、1994年はセナを事故で失いながらも、ヒル、クルサード、1996年、ヒル、ビルヌーブ、1997年はビルヌーブ、フレンツェンでチャンピオンを獲得、黄金期を築いたのだった。

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2008/03/16

佐藤琢磨、それでも楽しい

2008年のシーズンが幕開けとなった。
資金難から参戦が危ぶまれていたスーパーアグリも投資家グループとの提携によりなんとかマシンを走らせることができるようになった。

しかし、開幕前のテストに参加することができなかったことで明らかに準備不足となっており初日のフリー走行でも予想通り数々のトラブルに見舞われた。

デビッドソンがチームの現状を嘆く一方で、佐藤琢磨はとにかく2008年シーズンを始められたことを喜び、困難はあってもF1マシンを走らせることは最高に楽しいとコメントしている。

いちファンンとしてはこんな佐藤琢磨をなんとかいい状態で走ってもらうことができないだろうかと思ってしまう。
勝手な願いとは承知の上だが、スーパーアグリを支援してくれる日本企業があらわれてほしい。

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2007/10/09

中嶋一貴、ブラジルGPでF1デビュー!

ウィリアムズのレギュラードライバーをつとめるブルツが今シーズン限りでのF1引退を明らかにしたことにより、最終戦のブラジルGPには、同チームのテストドライバーをつとめる中嶋一貴がレースを走ることになった。

ブルツの引退表明があってから既に噂にはなっていたが、その噂どおり中嶋一貴がブラジルGPを走ることになったようだ。  
 ※ウィリアムズのWebサイト( http://www.williamsf1.co.uk/ )

日本人F1ドライバーもいよいよ2世の時代に入ってきた。
中嶋一貴の父である中嶋悟は現役時代にアイルトン・セナやネルソン・ピケとチームメイトになっていたが、セナの甥であるブルーノ・セナやピケ・Jrよりも一足先にF1デビューすることになった。

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2007/08/10

片山右京、新たなシリーズに挑戦

元F1ドライバーの片山右京が今年の11月から始まる「スピードカーシリーズ」に参戦することが明らかになった。

スピードカーシリーズは2007年11月からアジアと中東の各地を舞台に全8戦が行われる予定で、マシンは620馬力のエンジンが搭載されワンメイク。
ジャン・アレジやジョニーハーバートらも参戦する予定だそうだ。

片山右京の参戦で、いずれこのシリーズが日本にもやってくるかも知れないし、右京自身もそう願っているようだ。
今もダカールラリーなどで走る片山右京のドライビングを再び日本で見ることができるかも知れない。

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2007/07/11

アルバース、シーズン途中でシートを失う・・・?

スパイカーは次の第10戦ではアルバースを乗せないことを決めた模様だ。替わりのドライバーについては未定とのこと。

今回のシート喪失は、アルバースのスポンサーがチームに支払うべき資金を支払っていないことが原因らしいのだが、チームはアルバースのパフォーマンスに不満を持っており、フランスGPでは給油中にマシンを発進させてホースを引きちぎり一歩間違えば大事故になりかねない失態を演じてしまっていた。

アルバースと言えば、昨年井出有治が接触事故を起こしたときの相手だ。井出はこのアクシデントによりドライバーとしての力量が問われ前代未聞のライセンスの剥奪にまで展開していった。
そのこととは何も関係はないのだが、彼もまたこのままF1を追われてしまうのだろうか。

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2007/01/07

片山右京、バイオフューエルでパリダカに挑戦

片山右京選手は1997年にF1引退、その後もレーシングドライバーとして活躍している。全日本GT選手権、ルマンなどで走り、最近はラリーに挑戦している。

パリダカには2002年に初参戦し完走を果たし、2003年、2004年、2005年と続けて参戦、2005年は市販車無改造グループ/市販車ディーゼルクラス 3位という成績をあげた。

2006年はアジアクロスカントリー・ラリーでバイオフューエル(天ぷら油を再利用)で完走を果たした。
今年はこのバイオフューエルでパリダカに挑戦する。

1月6日に無事スタートを切った片山右京選手、21日までの長い戦いが始まった。
戦況は公式サイトで確認できる

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2006/10/28

F.モンタニー

2006年に参戦を果たしたスーパーアグリにとって、モンタニーは欠かせない存在だった。
4年落ちのシャシーでシーズンのほとんどを苦しんだスーパーアグリだが、この苦しい時期で彼の存在は大きかった。

2003年にワールドシリーズ・バイ・ニッサン シリーズチャンピオン獲得、ルノーF1のテストドライバーも務める。2004年、2005年もルノーF1でサードドライバーを務めたが、2006年は鈴木亜久里率いる小さなチームに加入、テスト&リザーブドライバーとなる。

第5戦には念願のF1レースデビューを果たし、第7戦で初完走、第11戦母国GPとなるフランスでも完走を果たした。第12戦からは山本左近が走ることになり、モンタニーは再びリザーブドライバーとなった。
チームは新設計となる「SA06」を投入、モンタニーも金曜日のフリー走行で好タイムを記録する。最終戦のブラジルでは8番手タイムとトップ10以内に入る健闘を見せ、チームを勇気付けた。この最終戦、佐藤琢磨と山本左近が二人揃って完走、佐藤琢磨も今シーズン最高のリザルトを得ることができた。

個人的には今シーズン最後までモンタニーで戦ってもらっても良かったのではないかと思う。佐藤琢磨はともかく、他の日本人ドライバーは世界での実績と経験が求められている。

チームに「ありがとう」と言って去っていったモンタニーは来シーズンはトヨタのサードドライバーを務めることになった。トヨタと言えば、フランス人ドライバーで日本とも関わりが深かったパニスがトヨタから去ることになった。その代わりにモンタニーが行くことになった形だが、モンタニーも日本との関わりが深くなりそうだ。
彼が再びレースを走れるかはわからないが、良いマシンを得て走って欲しいものだ。

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2006/08/20

モントーヤのデビューを振り返る

1990年代、ウィリアムズはマンセル、プロスト、ヒル、ビルヌーブを擁し5度のチャンピオンを獲得した。しかし、1998年、ルノーが一時撤退しチームも力を失っていく。1999年にはF1からCARTに転向しチャンピオンを獲得したザナルディを再び迎え入れたが、思うような結果を出せなかった。

2000年はBMWエンジンを搭載し、ラルフとバトンというコンビで臨んだ。この年にF1デビューを果たしたバトンは6度の入賞、最高位4位という結果を残すが、チームは2001年はCARTチャンピオンであるモントーヤの起用を決めた。

モントーヤは第1戦、第2戦はちゃんとしたレースをすることができず、リタイア。第3戦ブラジルGPでは予選4位、スタートで2番手にジャンプアップする。コース上にとまっているマシンがあるため、セーフティ・カーが入る。セーフティー・カーが外れてレースが再開すると、モントーヤは1コーナーで皇帝M.シューマッハに挑み、シューマッハをはじき出す形でトップを奪う。

トップを快走していたが、周回遅れのマシンとの接触でこのレースも完走することができなかった。しかし、M.シューマッハにでさえ遠慮しないこの走りがモントーヤを印象づけた。

第5戦、第9戦と2位、第11戦も4位に入るも、同僚のラルフ・シューマッハは既に3勝を上げる活躍を見せていた。
第15戦イタリアGP、前年ウィリアムズに在籍し、CARTに復帰していたザナルディがレース中に両足切断の事故に遭うという報が入った。このレース、モントーヤは3度目となるポールを獲得、猛追を見せるフェラーリのバリチェロを抑え、堂々の初優勝を飾った。

翌年、モントーヤは7度表彰台に上がるが、勝利には恵まれなかった。2003年は2勝、2004年は1勝、2005年はマクラーレンに移籍し3勝を上げた。

まだまだF1での活躍が期待できるモントーヤであったが、アメリカに渡りNASCARに転向することを決めた。マクラーレンは契約の満了を待たず、モントーヤを放出、2006年シーズン途中でF1から離れることとなってしまった。

「暴れん坊」と呼ばれたモントーヤはそのレーシングスタイルはNASCARに向いているかも知れない。近年、FIAはレースを面白くする(?)ための施策を次々と繰り出している。しかし、印象的な走りを魅せたモントーヤのような存在があることの方がどんな施策よりもレースを面白くするのではないだろうか・・・。

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2006/08/03

ブルツ、念願叶う

ウィリアムズが2007年のドライバーを発表した。
ウェバーを放出して第3ドライバーのブルツを昇格させるというものであった。

来年はトヨタ・エンジンを搭載することも決まっており、技術的にもスキルの高いブルツは的確なフィードバックが可能でエンジニアとのコミュニケーション能力もある。これがブルツを昇格させた決め手となったようだ。

第3ドライバーにただ甘んじていたわけではないブルツは、常にレギュラードライバーに復帰することを目指していた
ブルツは今年マクラーレンからウィリアムズに移籍した。
マクラーレンではモントーヤがシーズン途中で離脱、デ・ラ・ロサがその代役でレースを走っているが、ウィリアムズでは代役ではなく、れっきとしたレギュラードライバーとしてレース復帰を果たすことになり、ブルツの選択は正しかった。
来シーズンのブルツの走りが今から楽しみだ。

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2005/12/26

ブルツ、積年の願いは叶わないか

マクラーレンが来季テストドライバーとしてゲイリー・パフェットの起用を決めた。
パフェットは2005年のDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)チャンピオン。1999年には「マクラーレン・オートスポーツ・ヤングドライバー・アワード」を受賞している。
チームのリリースには「ゲイリーはライコネン、モントーヤ、そしてデ・ラ・ロサと共に今後数か月でチームの2006年コンテンダー「MP4-21」の開発に当たるだろう」としており、そこにはこれまでテストドライバーを務めていたブルツの名前がなかった。

ブルツは1997年、ベルガーの病欠の代打としてベネトンからグランプリデビュー。イギリスGPでは見事3位表彰台に上がった。翌年ベネトンの正ドライバーのシートを獲得し、入賞6回(うち4位が5回)という活躍を見せた。2001年にそれまでマクラーレンの第3ドライバーを務めていたパニスがBARに移籍したのと入れ替えでマクラーレンの第3ドライバーを務めていた。

ブルツの今後の去就は明らかにされていない。

ブルツの願いは再びレギュラーシートを獲得することで、F1に留まるためにテストドライバーという道を選んでいたのだが、その積年の願いが叶わぬままF1を去ることになるのだろうか。

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2005/02/13

N.ハイドフェルドのF1デビューを振り返る

1999年、アラン・プロスト率いるプロストGPは成績不振にあえいでいた。
1997年にチームを立ち上げ、搭載したエンジンは無限ホンダ、ドライバーは日本人ドライバーの中野信治とフランス人ドライバーのO.パニスだった。この年、パニスは最高位2位、中野信治も2回の入賞と初参戦としてはまずまずの成績をおさめた。

オールフランスを目指していたプロストは翌年の1998年プジョー・エンジンを獲得する。ドライバーも中野信治に替わりJ.トゥルーリが収まった。しかし、この年プロストGPはトゥルーリの6位入賞がたった1回という成績に終わった。

1999年も序盤でパニス、トゥルーリが1回ずつ6位入賞を果たすが、リタイアが続く厳しい状況だった。
そうした中、プロストは2000年のドライバーとしてJ.アレジを獲得、更にマクラーレンのテストなどに参加していたドイツ人でメルセデス傘下のN.ハイドフェルドを起用することを決断した。
これによりパニスはレギュラーシートを失うことになった

ハイドフェルドはこの年国際F3000で活躍する傍ら、マクラーレンのテストにも度々参加していた。ハイドフェルドはテストで当時のエースドライバーであったハッキネンに迫るタイムを出すなど、彼の才能にはマクラーレン以外の他のチームも関心を示し、ジョーダンやザウバーからの獲得が噂された。

いろいろと噂されたがハイドフェルドはマクラーレンからレンタルという形で1999年シーズン途中からプロストGPでテストに参加、国際F3000チャンピオンのタイトルを引っさげて2000年にプロストGPからF1デビューを果たすことになった。

プロストGPは資金難にも苦しめられていた。この資金難はチームの成績にも影響、さすがのハイドフェルドも17戦中6回完走、入賞なしと苦戦を強いられた。

2001年、ハイドフェルドはザウバーに活躍の場を移す。チームメイトはこの年F1デビューを果たしたK.ライコネンだ。ハイドフェルドは第1戦で4位入賞、第3戦で3位表彰台に上がり、ルーキーイヤーで発揮できなかったポテンシャルをいきなり世界にアピールした。

ハイドフェルドは2003年までザウバーで走り、2004年にはジョーダンに移籍したが、2001年が最も輝いた1年だった。2005年はウィリアムズに移籍するハイドフェルド、2001年以上の活躍が期待される。


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2004/12/29

J.ビルヌーブのF1デビューを振り返る

ウィリアムズは1992年、1993年、1994年とコンストラクターズのタイトルを獲得、加えて1992年はN.マンセル、1993年はA.プロストがドライバーズチャンピオンシップのタイトルを獲得している。

1994年にはA.セナを迎え入れたが第3戦サンマリノGPの事故で帰らぬ人となってしまった。セナの後をD.クルサードが引き継ぎ、最後にはN.マンセルを呼び寄せD.ヒルとともにシーズンを乗り切りコンストラクターズのタイトルを守った。

1995年の8月、ウィリアムズは当時アメリカのインディカー・シリーズのポイントリーダーであるJ.ビルヌーブをシルバーストーンの合同テストに参加させた。ビルヌーブは当時のウィリアムズのエースドライバーであるD.ヒルに迫るタイムを叩き出しその実力を知らしめた。このビルヌーブの走りにD.ヒルは「タイムだけ見でも、ジャックというのは只者じゃないね」とコメントしている。

そしてF1のテストに参加した2週間後にビルヌーブの1996年のウィリアムズ入りが明らかになった。その翌日にはベネトンでウィリアムズのD.ヒルとタイトル争いを演じていたM.シューマッハのフェラーリ入りも明らかになっている。

3年連続でタイトルを守ってきたウィリアムズだが、1995年シーズンはM.シューマッハ率いるベネトンにタイトルを奪取される。

こうした中、J.ビルヌーブはインディ500で勝利、インデイカーシリーズでもチャンピオンを獲得して鳴り物入りでF1に参入してくる。

1996年開幕戦、ビルヌーブはいきなりポールポジションを獲得し鮮烈なデビューを果たす。決勝ではチームメイトのヒルに破れ惜しくも2位になるがF1参戦1戦目でポール&表彰台にファステストラップという偉業を成し遂げた。

第2戦はリタイアに終わるものの、第3戦では再び2位。そして第4戦目にして初優勝を飾る。
ビルヌーブはこの年、4勝を勝ちとる。チームメイトのヒルが8勝をあげドライバーズチャンピオンシップのタイトルを獲得、チームもコンストラクターズのタイトルを奪還した。

翌年の1997年、D.ヒルが移籍しビルヌーブがウィリアムズのエースドライバーとなる。そして7勝をあげわずか2年目にしてF1の頂点に立った。

1999年に新生のBARに移籍し2001年には一時撤退していたホンダの復帰後初の表彰台を獲得したが、長く低迷する。2003年には翌年のシートを佐藤琢磨に奪われることが決まり最終戦の日本GPの出場を辞退した。

2004年第16戦でルノーからF1に復帰、2005年はザウバーで走る。かつての輝きを取り戻すことができるか。

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2004/12/26

M.シューマッハのF1デビューを振り返る(2)

M.シューマッハのF1デビューを振り返る(1)の通り1991年の第11戦ベルギーGPでM.シューマッハはF1デビューを飾った。

ベルギーGPのみの契約でジョーダンに乗ったM.シューマッハだが、チームは彼との契約をさらに行おうとしていた。しかし、F1参戦を模索していたメルセデスはこの才能あふれる若者に経験を積ませ、F1参戦に備えようとしており、マクラーレン、ウィリアムズ、フェラーリらと同様にワークスのサポートを受けるベネトンに話を持ちかけた(という説)。

こうして電撃移籍の決まったM.シューマッハだが、当然ジョーダンはこれに抗議、またM.シューマッハの移籍でベネトンから追い出される格好になったR.モレノもこれを不服とし裁判所に訴える構えを見せた。

モレノの親友でもあるチームメイトだったN.ピケとチームの間に気まずい空気が流れたという。また、同じブラジリアンであるA.セナもベネトンのフラビオ・ブリアトーレに抗議した。

この電撃移籍問題はFISAの審査委員会が仲裁に入り、モレノがジョーダンに移籍することでジョーダン側が折れ、またモレノはベネトンから賠償金を支払われることで話がまとまった。

M.シューマッハは残り5戦で3戦に入賞、最高位5位で1991年を終えた。

当時M.シューマッハの印象についてA.セナがインタビューされ、「まだわからないが、確かに彼は今のところ一番可能性があるドライバーだ。でも、F1ではまず恵まれたマシンを獲得する必要がある。そうでなければドライバーは才能を活かすことができない。彼はその面で恵まれたからこのままの体制を持続できれば彼には多くの可能性があるんじゃないかな。」と答えている。

そして翌年、デビューを飾ったベルギーで初優勝、1994年にはドライバーズ・チャンピンシップのタイトルを獲得、1995年には自身がチャンピオンを獲得するとともに、ベネトンにコンストラクターズのタイトルをももたらした。

これを機にM.シューマッハはベネトンを離れフェラーリに移籍する。
メルセデスは1994年にF1に参入したが現在に至るまでM.シューマッハがメルセデス搭載のマシンに乗っていない。

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2004/12/23

琢磨の2004年

フル参戦2年目の佐藤琢磨だったが、2年目ということを忘れてしまうほどの結果を見せてくれた。
決勝グリッドはこれまで片山右京が最高位だった5番手を上回る3番手を獲得、その後自身の最高位を更新して2位を獲得、決勝でもこれまで鈴木亜久里の3位に並び日本人として二人目の表彰台に上った。入賞回数も早くも中嶋悟の10回を上回る11回。

エンジン・ブローや接触を繰り返した佐藤琢磨も最後の4戦で連続入賞しチームのコンストラクターズ2位に大いに貢献した。成長を見せてくれた1年だった。

2005年も同じBARから参戦する佐藤琢磨のさらなる成長が楽しみだ。

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2004/12/19

M.シューマッハのF1デビューを振り返る(1)

M.シューマッハは1991年の第11戦ベルギーGPでジョーダン・フォードから22歳でF1デビューを果たした。
予選でいきなり7番手に入る走りを見せたが、決勝はオープニングラップでクラッチトラブルが発生し残念ながらリタイヤという結果に終わっている。

ジョーダンGPは1991年にF1に参戦、B.ガショーとA.チェザリスの2人で第10戦まででダブル入賞2回を含み5つのグランプリで入賞を果たしており、初参戦のチームとしてかなり健闘を見せていた。

しかし、B.ガショーが前年末にロンドンでタクシーと接触事故を起こし、そのトラブルから相手の運転手に催涙ガスを浴びせたとして、母国ベルギーGPを目前にして18カ月の懲役刑を受けて服役することになってしまった。

M.シューマッハは1990年からメルセデス・スポーツカー・チームでドライビング、1989年のWSPC最終戦メキシコで勝利を挙げている。また、ドイツF3選手権でもチャンピオンとなっており、マカオで行なわれたFIA世界F3選手権においても勝利を収めた。さらに日本のF3000選手権にも参戦、菅生で2位という結果を残していた。
この活躍に目をつけたエディー・ジョーダン氏がメルセデスにコンタクトをとり、M.シューマッハはこのB.ガショーの代役としてメルセデスからレンタルという形でデビューすることになった。

M.シューマッハはジョーダンで1戦走った後、電撃的にベネトンに移籍する。
これに関する話は次回投稿に続く。

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2004/11/27

O.パニス

2005年に向けたテストが開始されるのにあわせこれまでウィリアムズのテストドライバーを務めていたM.ヘネがフェラーリに移籍、バルセロナ合同テストの初日からフェラーリのマシンをドライブした。

ヘネはミナルディからF1デビューを果たしたが、その後シートを失いテストドライバーとしてウィリアムズに加入していた。2003年にはラルフの代役としてイタリアGPに参戦し見事5位入賞を果たした。2004年もラルフが負傷しその代役としてレースを走ったが期待された結果を出せずピッツォニアに替えられてしまった。

ここ数年、レース経験者がシート喪失後にテストドライバーを選択するケースが増えているが、この傾向を強くしたのは今年現役を退いたO.パニスの存在があったからだと個人的には思っている。

優勝経験を持つパニスだが、2000年にシート喪失という憂き目に遭い、マクラーレンのテストドライバーとなった。その年、マクラーレンの活躍にテストドライバーとして大きく貢献し、その経験とマシンの開発能力を買われ翌年には再びレギュラードライバーに返り咲いた。

1996年モナコGP、パニスは無限ホンダで1勝をあげた。そして2001年と2002年ではBARホンダ、2003年と2004年はトヨタで活躍、日本でも馴染みの深いドライバーだ。今年限りで現役引退を決めたが、2005年もトヨタでのテストは担当する。

これまでF1を楽しませてくれたパニスに感謝したい。

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