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2005/02/13

N.ハイドフェルドのF1デビューを振り返る

1999年、アラン・プロスト率いるプロストGPは成績不振にあえいでいた。
1997年にチームを立ち上げ、搭載したエンジンは無限ホンダ、ドライバーは日本人ドライバーの中野信治とフランス人ドライバーのO.パニスだった。この年、パニスは最高位2位、中野信治も2回の入賞と初参戦としてはまずまずの成績をおさめた。

オールフランスを目指していたプロストは翌年の1998年プジョー・エンジンを獲得する。ドライバーも中野信治に替わりJ.トゥルーリが収まった。しかし、この年プロストGPはトゥルーリの6位入賞がたった1回という成績に終わった。

1999年も序盤でパニス、トゥルーリが1回ずつ6位入賞を果たすが、リタイアが続く厳しい状況だった。
そうした中、プロストは2000年のドライバーとしてJ.アレジを獲得、更にマクラーレンのテストなどに参加していたドイツ人でメルセデス傘下のN.ハイドフェルドを起用することを決断した。
これによりパニスはレギュラーシートを失うことになった

ハイドフェルドはこの年国際F3000で活躍する傍ら、マクラーレンのテストにも度々参加していた。ハイドフェルドはテストで当時のエースドライバーであったハッキネンに迫るタイムを出すなど、彼の才能にはマクラーレン以外の他のチームも関心を示し、ジョーダンやザウバーからの獲得が噂された。

いろいろと噂されたがハイドフェルドはマクラーレンからレンタルという形で1999年シーズン途中からプロストGPでテストに参加、国際F3000チャンピオンのタイトルを引っさげて2000年にプロストGPからF1デビューを果たすことになった。

プロストGPは資金難にも苦しめられていた。この資金難はチームの成績にも影響、さすがのハイドフェルドも17戦中6回完走、入賞なしと苦戦を強いられた。

2001年、ハイドフェルドはザウバーに活躍の場を移す。チームメイトはこの年F1デビューを果たしたK.ライコネンだ。ハイドフェルドは第1戦で4位入賞、第3戦で3位表彰台に上がり、ルーキーイヤーで発揮できなかったポテンシャルをいきなり世界にアピールした。

ハイドフェルドは2003年までザウバーで走り、2004年にはジョーダンに移籍したが、2001年が最も輝いた1年だった。2005年はウィリアムズに移籍するハイドフェルド、2001年以上の活躍が期待される。


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コメント

TB有難うございます。
ハイドフェルドは個人的に前からいい車に乗ってほしいと思ってたドライバーの一人です。
ウィリアムズで頑張ってほしいですね。

今後もどうぞよろしくお願いします。

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