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2004年12月

2004/12/29

J.ビルヌーブのF1デビューを振り返る

ウィリアムズは1992年、1993年、1994年とコンストラクターズのタイトルを獲得、加えて1992年はN.マンセル、1993年はA.プロストがドライバーズチャンピオンシップのタイトルを獲得している。

1994年にはA.セナを迎え入れたが第3戦サンマリノGPの事故で帰らぬ人となってしまった。セナの後をD.クルサードが引き継ぎ、最後にはN.マンセルを呼び寄せD.ヒルとともにシーズンを乗り切りコンストラクターズのタイトルを守った。

1995年の8月、ウィリアムズは当時アメリカのインディカー・シリーズのポイントリーダーであるJ.ビルヌーブをシルバーストーンの合同テストに参加させた。ビルヌーブは当時のウィリアムズのエースドライバーであるD.ヒルに迫るタイムを叩き出しその実力を知らしめた。このビルヌーブの走りにD.ヒルは「タイムだけ見でも、ジャックというのは只者じゃないね」とコメントしている。

そしてF1のテストに参加した2週間後にビルヌーブの1996年のウィリアムズ入りが明らかになった。その翌日にはベネトンでウィリアムズのD.ヒルとタイトル争いを演じていたM.シューマッハのフェラーリ入りも明らかになっている。

3年連続でタイトルを守ってきたウィリアムズだが、1995年シーズンはM.シューマッハ率いるベネトンにタイトルを奪取される。

こうした中、J.ビルヌーブはインディ500で勝利、インデイカーシリーズでもチャンピオンを獲得して鳴り物入りでF1に参入してくる。

1996年開幕戦、ビルヌーブはいきなりポールポジションを獲得し鮮烈なデビューを果たす。決勝ではチームメイトのヒルに破れ惜しくも2位になるがF1参戦1戦目でポール&表彰台にファステストラップという偉業を成し遂げた。

第2戦はリタイアに終わるものの、第3戦では再び2位。そして第4戦目にして初優勝を飾る。
ビルヌーブはこの年、4勝を勝ちとる。チームメイトのヒルが8勝をあげドライバーズチャンピオンシップのタイトルを獲得、チームもコンストラクターズのタイトルを奪還した。

翌年の1997年、D.ヒルが移籍しビルヌーブがウィリアムズのエースドライバーとなる。そして7勝をあげわずか2年目にしてF1の頂点に立った。

1999年に新生のBARに移籍し2001年には一時撤退していたホンダの復帰後初の表彰台を獲得したが、長く低迷する。2003年には翌年のシートを佐藤琢磨に奪われることが決まり最終戦の日本GPの出場を辞退した。

2004年第16戦でルノーからF1に復帰、2005年はザウバーで走る。かつての輝きを取り戻すことができるか。

2004/12/26

M.シューマッハのF1デビューを振り返る(2)

M.シューマッハのF1デビューを振り返る(1)の通り1991年の第11戦ベルギーGPでM.シューマッハはF1デビューを飾った。

ベルギーGPのみの契約でジョーダンに乗ったM.シューマッハだが、チームは彼との契約をさらに行おうとしていた。しかし、F1参戦を模索していたメルセデスはこの才能あふれる若者に経験を積ませ、F1参戦に備えようとしており、マクラーレン、ウィリアムズ、フェラーリらと同様にワークスのサポートを受けるベネトンに話を持ちかけた(という説)。

こうして電撃移籍の決まったM.シューマッハだが、当然ジョーダンはこれに抗議、またM.シューマッハの移籍でベネトンから追い出される格好になったR.モレノもこれを不服とし裁判所に訴える構えを見せた。

モレノの親友でもあるチームメイトだったN.ピケとチームの間に気まずい空気が流れたという。また、同じブラジリアンであるA.セナもベネトンのフラビオ・ブリアトーレに抗議した。

この電撃移籍問題はFISAの審査委員会が仲裁に入り、モレノがジョーダンに移籍することでジョーダン側が折れ、またモレノはベネトンから賠償金を支払われることで話がまとまった。

M.シューマッハは残り5戦で3戦に入賞、最高位5位で1991年を終えた。

当時M.シューマッハの印象についてA.セナがインタビューされ、「まだわからないが、確かに彼は今のところ一番可能性があるドライバーだ。でも、F1ではまず恵まれたマシンを獲得する必要がある。そうでなければドライバーは才能を活かすことができない。彼はその面で恵まれたからこのままの体制を持続できれば彼には多くの可能性があるんじゃないかな。」と答えている。

そして翌年、デビューを飾ったベルギーで初優勝、1994年にはドライバーズ・チャンピンシップのタイトルを獲得、1995年には自身がチャンピオンを獲得するとともに、ベネトンにコンストラクターズのタイトルをももたらした。

これを機にM.シューマッハはベネトンを離れフェラーリに移籍する。
メルセデスは1994年にF1に参入したが現在に至るまでM.シューマッハがメルセデス搭載のマシンに乗っていない。

2004/12/23

琢磨の2004年

フル参戦2年目の佐藤琢磨だったが、2年目ということを忘れてしまうほどの結果を見せてくれた。
決勝グリッドはこれまで片山右京が最高位だった5番手を上回る3番手を獲得、その後自身の最高位を更新して2位を獲得、決勝でもこれまで鈴木亜久里の3位に並び日本人として二人目の表彰台に上った。入賞回数も早くも中嶋悟の10回を上回る11回。

エンジン・ブローや接触を繰り返した佐藤琢磨も最後の4戦で連続入賞しチームのコンストラクターズ2位に大いに貢献した。成長を見せてくれた1年だった。

2005年も同じBARから参戦する佐藤琢磨のさらなる成長が楽しみだ。

2004/12/19

M.シューマッハのF1デビューを振り返る(1)

M.シューマッハは1991年の第11戦ベルギーGPでジョーダン・フォードから22歳でF1デビューを果たした。
予選でいきなり7番手に入る走りを見せたが、決勝はオープニングラップでクラッチトラブルが発生し残念ながらリタイヤという結果に終わっている。

ジョーダンGPは1991年にF1に参戦、B.ガショーとA.チェザリスの2人で第10戦まででダブル入賞2回を含み5つのグランプリで入賞を果たしており、初参戦のチームとしてかなり健闘を見せていた。

しかし、B.ガショーが前年末にロンドンでタクシーと接触事故を起こし、そのトラブルから相手の運転手に催涙ガスを浴びせたとして、母国ベルギーGPを目前にして18カ月の懲役刑を受けて服役することになってしまった。

M.シューマッハは1990年からメルセデス・スポーツカー・チームでドライビング、1989年のWSPC最終戦メキシコで勝利を挙げている。また、ドイツF3選手権でもチャンピオンとなっており、マカオで行なわれたFIA世界F3選手権においても勝利を収めた。さらに日本のF3000選手権にも参戦、菅生で2位という結果を残していた。
この活躍に目をつけたエディー・ジョーダン氏がメルセデスにコンタクトをとり、M.シューマッハはこのB.ガショーの代役としてメルセデスからレンタルという形でデビューすることになった。

M.シューマッハはジョーダンで1戦走った後、電撃的にベネトンに移籍する。
これに関する話は次回投稿に続く。

2004/12/11

@nifty:NEWS@nifty:F1、来季は史上最多の19戦…開催日程決まる(読売新聞)


19戦もあるのはうれしいが、そんなにF1休暇は取れない・・・。月曜の朝がつらいかも。

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東京モーターショー2005&2003

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    2005年と2003年の東京モーターショーで展示されたF1マシンです。

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